青い紫陽花のblog

唐突に、ブログをはじめたくなりました。たぶん雑記になると思います。

備忘録、というか

“七つの習慣”を読んでいる

そこそこボリュームがあって、オジサマ向けのビジネス書だろうとずっと思ってた。

なんの偶然か図書館で手に取り、結局アマゾンで購入して手元に置いてある。

本との出会いも、本当に不思議だ。偶然なのか必然なのか。

図書館にはひたすら感謝。

 

第一の習慣“主体性を持つ” ここに惹かれた。

ユダヤ精神科医ヴィクトール・フランクルの、収容所での過酷な体験と、その状況下ですら“自由”になれるという話が、衝撃的だった。

“自分の思考は自分で選べる” この言葉は知ってはいたが、全く疑っていた。

 

だって、“ムカつく”とか、“ハラが立つ”って、考えるまでもなく、瞬間的に頭にワードが浮かぶではないか。

 

ヴィクトール・フランクルの話を読み、やっと腑に落ちた。

 

刺激と反応の間には、スペースがある。

 

同時に、希望が湧いた。

私は自由になりたいと、ずっと思ってた。

学校のシステムからは、卒業すれば逃れられるけれど、社会のシステムは延々と続く。

社会のシステムなのか、会社のシステムなのだろうか?私を捕まえているのは。

なんで会社に属してないと、生きてくのが大変になるのだろう。毎日拘束されるのが嫌だ。毎朝早く起きるのが嫌だ。延々この思考を頭の中でこねくり回していた。

 

だから安直に、会社には縛られていなさそうに見える、作家やクリエイティブなフリーランスの職業に憧れた。

作家になれれば、絶対に幸せになれると思っていた。

だから今の自分は不幸なんだと、決めつけていた。

 

結局、才能がなかった。情熱も擦り切れて、あきらめた。

 

夢を追うのは終わっても、“システムに束縛された私”の生活は延々と続く。

映画では、主人公に劇的な事件が起きて、人生が劇的に華やかに変化する。

それがフィクションの世界。

ノンフィクションの世界では、ただ淡々と、地味な習慣が続いていく。アニメの主人公と違って、年もとる。

 

自由 自由 自由

もしかしたら、コヴィー博士の提唱する“主体性を持つ”ことが、私が求め続けた“自由”を得る唯一の魔法かもしれないのだ。

 

窓ガラスを割ってまわっても、自由になんてなれないのさ。

 

私はずっと、周りの人が怖かった。

周りの人はいつ、どんな拍子で私を傷つけるか、わかったもんじゃない、油断ならない敵だ それが私の観念だった。

だから、誰かが私を傷つけないよう、常に用心して怯えていないといけなかった。

“あなたの許可なしに、誰もあなたを傷つけることはできない” この言葉をこの本で読んだ時

!!!!!!!!

私は周囲からの刺激に対する反応を、自分で自由に選べるんだ

解放されて自由になる方法が、私自身の手にあるんだ!

はっきりとした希望が、見えた。

 

 

【第一の習慣】主体性を持つこと

私は自分で決められて、選べるんだ

私の自由の第一歩

 

それと

映画の世界で

主人公が“うおーーーーーっ”って大声でさけんで、自分の置かれた状況を、理不尽さを怒鳴り上げて、そこからストーリーが展開したりするけれど。

私もそのフィクションの世界にだいぶ毒されていて。

 

変える為には何かこう、どん底に落ちて、怨念を爆発させて、大声で叫んで・・・という過程が必要だと思っていたが。

違う

大声で叫ぶ必要なんかないんだ。 怪しげな自己啓発セミナーじゃあるまいし。

スピ系セミナー講師さんが“自分の中のヘドロを全部ぶちまけるんだあ!!”とかって、やってたりするけれど。

言うほどヘドロなんて、たまっているだろうか?

そんな異物が体内にあったら、とっくに嘔吐か下痢かで体外に排出されているだろう。

自分が変わる時って、多分内面的な、静かな、穏やかな、日常のささやかな日に行われるのかも。くす玉がぱっかーんて割られるわけでもなく、ファンファーレが鳴らされるわけでもなく。

静かに、自分の中が変わっていく。

きっと、傍目からみれば何も変わらない。自分のなかのささやかな光。

 

社会に対する恨みつらみ、憎悪が作品作りの源泉になるのだと、本気で思っていた。

不幸な人の方が面白いものを書くとか、文章を書く人は私生活は不幸でアルコール中毒者が多いとか。

恥ずかしい話だが、そんな人達に憧れていた・・・これを世間では“中二病”と呼ぶ。

これもたぶん、フィクション世界にありがちな設定をそのまま信じていたせいだろう。

実際は、世の中に対する恨みつらみを原動力にすると、最終的には自滅が待っているだろう。作品が脚光をあびて、短期的には活躍するかもしれないけれど、長期にはまず無理だ。

実際には誰かを恨んだり憎んだりすると、自分のなかの大切なエネルギーが摩耗されてしまい、ただ心が疲弊して、クリエイティブな能力など発揮できなくなる。

不毛な行為だ。ただただ、自分が損をするだけ。

好きなものを、心のままに追及して、周りの人や、神様にも感謝して。長期的には、こっちのほうが遥かに成功する。

 

まったく、20代をほぼ不毛な努力に使ってしまったなあ・・・私ってば。

 

憎悪は、自分の好きなものでさえ、腐食させてしまう。強力な除草剤みたいなもので、ただただ自分の庭を荒廃させるだけ。おまけに通りがかった人が、ゴミを投げ捨てていく。対人トラブルが頻発する。自分の荒廃が招いているのだ。

花が咲き乱れて、きれいに整った美しい庭には、通りががった人は褒めて、もちろゴミなど投げ捨てたりしないよね。自明の理だ。

 

自分との小さな約束。

頭の中で憎悪の車をくるくると回さない。

 

これは、毎日絵を練習する、なんて事よりずっと大切な自分との約束になるだろう。

自由の第一歩は始まっているのだ。

 

私は私を受け入れていなかった。

本当は、作家になれない事が嫌じゃなくて、

“作家になれない自分”

つまり、“自分”が嫌だったのだ。

私は、私を受け入れるんだ。

選べるのだから。

 

選ぶ自由を与えられているのだから。

 

自分のエネルギーは好きな事に、大切な事に大切に使おう。

 

まずは、第一歩